ミドルエイジクライシスにハマった話|スキーの先生だった父と、40歳を手前にした私は同じ形をしていた

この記事の要点
- 「世の中に価値を出せている自分」にしか、自分の価値を置けていなかった。スキーができなくなった父と、同じ形だった
- 父に聞きに行っても、答えはなかった。でも、体の使い方を教える者同士として、初めて同じ言葉で話せた
- 答えはまだない。急いで閉じず、戻ってこられる場所を守りながら、付き合っていく問いだと思っている
「パソコンに向かうこともできなくなったら、私は、生きていけるんだろうか」
38歳のある日、本気でそう思いました。
仕事は、うまくいっていました。
体も、元気でした。
それなのに、ある日突然、足元がぐらついたんです。
人生の折り返しが見えてきて、「このままでいいのかな」と急に怖くなる。
ミドルエイジクライシス(中年の危機)と呼ばれるものです。
40代、50代に来ることが多いと言われていますが、私には、40歳を手前にして来ました。
関係しそうな本を、片っ端から読みました。
理屈は、分かりました。
でも、怖さは消えませんでした。
最後に頼ったのは、本ではなく、スキーの先生だった父でした。
なぜ父だったのか。
それは、父がずっと前に、私と同じ場所で立ち止まった人だったからです。
スキーができなくなった父と、私は、同じ形をしていた。
先に書いておくと、この記事に、きれいな答えはありません。
ただ、もし今、あなたも人生の折り返しで立ち止まっているなら。
同じところで立ち止まっている人間が、ここにもいます。
少しだけ、付き合ってもらえたらうれしいです。
スキーがうまい自分しか、いなかった
私の父は、スキーの先生でした。
私がスキーを始めたのは、3歳のときです。
父がスキーの先生なので、やるのが当たり前の環境でした。
父は、日本代表クラスまでいった人です。
スキーがどんどん上達していく。
その感覚が、たまらなく好きだったんだと思います。
でも、父は怪我を繰り返しました。
体を壊して、スキーができなくなる。
それを、何度も経験しました。
一時期は、お酒に逃げていたこともあります。
私は上京していたので、そのころの父を、ちゃんとは見ていません。
あとから、妹にこう言われました。
「お兄ちゃんたちはいいよね。あの姿、見てないから」
今なら、少し分かります。
父の中には、「スキーがうまい自分」以外の自分が、いなかったんじゃないか。
だから、スキーができなくなったとき、自分の価値ごと崩れてしまった。
そしてそれは、子どものころの私も同じでした。
体が小さくて、ほかに誇れるものがなかった私にとって、スキーは、自分が自分でいられる唯一のものでした。
中学2年生で骨折して競技をやめたとき、私は「何者でもない自分」になりました。
40歳を手前にして、同じところに立っていた
きっかけは、ピークが見えてしまったことでした。
最初は、何者でもない人間が、がむしゃらに頑張る。
できることが増えて、少しずつ結果が出るようになる。
でも、どんな仕事にも、ピークがあります。
そして、ピークが来たときは、自分で分かるんです。
「ここだな」と。
そのとき、気づいてしまいました。
私は、「世の中に価値を出せている自分」にしか、自分の価値を置けていなかった。
今は、体が動くからいい。
体が動かなくなっても、インターネットで何とかできる。
じゃあ、パソコンに向かうこともできなくなったら?
冒頭に書いた、あの一言です。
正直、生きていく自信がないな、と思ってしまったんです。
かなり本気で、怖かったです。
スキーができなくなった父と、まったく同じ形でした。
対象がスキーから仕事に変わっただけで、私も「何かができる自分」に、自分の全部を乗せていました。
本を読めば、理屈は分かります。
人生には前半戦と後半戦があって、戦い方を変える必要がある。
でも、私が欲しかったのは理屈ではなく、同じ場所に立ったことのある人の言葉でした。
父に、聞きに行った
それで、父に直接聞いてみることにしました。
家族で食事をしたとき、思い切って聞きました。
「スキーができなくなったとき、あの気持ちを、どうやって処理したの」
答えは、ありませんでした。
「いつかこうなるなんて、全く考えていなかった」
根拠のない自信で走り続けて、現実にぶつかってから、なんとか対処してきた。
若いころ、先輩から「次のことを考えておけ」と言われたこともあったそうです。
でも、「そういうときに言われても、刺さらないんだよ」と。
ちょっと、笑ってしまいました。
たぶん私も、今これを誰かに言われても、刺さらないだろうなと思ったからです。
ただ、話を聞いていくと、父は答えを持っていないようで、実はやっていたことがありました。
大きな手術のあと、指導者をまとめる側に回ることを勧められても、断ってリハビリで戻ったこと。
そのあとは、一人ひとりに教える個人レッスンを中心にして、長く続けたこと。
何年も先まで、予約が埋まっていたこと。
父はたぶん、途中から、スキーの技術ではなく、人として選ばれていたんだと思います。
本人は、そんなふうに言葉にはしていませんでしたが。
その話を私がすると、父は少し考えて、こう言いました。
「スキルは前提で、付いてくるものだな」
答えをもらったわけではありません。
でも、体の使い方を教える仕事をしている者同士として、初めて、同じ言葉で話せた気がしました。
今、実家に帰ると
今、実家に帰ると、体の軸の取り方で、父と話が盛り上がります。
父が言葉にできずに、体でやってきたこと。
それを、私が言葉にする。
父が「そうそう、そういうことだ」とうなずく。
父が体で知っていたことを、私が言葉にする。それが、今の父と私の関係です。
父は今、卓球にハマっている
その父が今、卓球にハマっています。
「昔、スキーがどんどん上達していったあの感覚を、まさかこの年になって、もう一回楽しめるとは思わなかった。めちゃくちゃ楽しい」
そう言いながら卓球の話をする父を見て、少し救われた気持ちになりました。
上達していく感覚が好き。
それは、私が筋トレにハマった理由と、まったく同じです。
正しく努力すれば、その分ちゃんと上手くなる。
その感覚は、何歳になっても、取り戻せるんだと思います。
まだ、答えは出ていない
正直に書くと、私のミドルエイジクライシスは、まだ終わっていません。
少し抜けた感じはあります。
でも、「価値を出せなくなったあとの自分の価値」には、まだ答えがありません。
これは、父も持っていなかった答えです。
自分で作るしかないんだと思います。
今、決めていることは3つです。
1つ目は、この問いを、急いで解決しようとしないこと。
父は今も、「一流の人は結局、何をしたかったんだろう」と考え続けています。
たぶん、閉じる問いではなく、ずっと付き合っていく問いなんだと思います。
2つ目は、怖さに飲まれたときに、戻ってこられる場所を守ること。
家族との時間や、事業とは関係のない土台です。
これは、事業より優先して守ると決めています。
3つ目は、父との話を、一回で終わらせないこと。
前半戦は、スキルで戦ってきました。
それは、後悔していません。
後半戦は、人を育てることや、自分が得てきたものを渡すことで、戦っていきたいと思っています。
仕事に、自分の全部を乗せている人へ
最後に、当時の私のように、仕事に自分の全部を乗せている人へ。
答えは持っていないので、私が今、気をつけていることだけ書いておきます。
- 怖くなるのは、真面目に頑張ってきた証拠:全部を乗せてきたから、怖くなる。おかしなことではない
- 答えを急がない:本を読んでも消えない怖さは、ある。閉じる問いではなく、付き合っていく問いだと思っていい
- 戻ってこられる場所を、先に守る:家族や、仕事と関係のない時間。事業より優先していい
- 上の世代に、聞いてみる:答えはなくても、やってきたことの中にヒントがある。同じ言葉で話せる日が来るかもしれない
- 上達する感覚は、何歳でも取り戻せる:父は、卓球でそれを見つけた
父との話は、これからも続けていきます。
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このブログを運営している人
小川健太|チカラコブ株式会社 代表取締役:今は新潟県見附市で、パーソナルジム「CLASSIC GYM」と女性専用24時間ジム「ココカラジム」を運営しています。
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人生が変わるきっかけは、いつも人との出会いでした。
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